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蘆塚 忠右衛門(あしづか ちゅうえもん、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、キリシタン。名は忠兵衛ともされる。 小西氏の家臣。妻は皆吉続熊(小西行長家臣)の娘。子に忠右衛門、忠太夫らがいる。 == 名前について == 『天草・島原 切支丹一揆史談』や『諫早市史』などでは、小西行長に仕えた宇土城代・蘆塚某の名を「忠右衛門」とする。前書の著者仁尾環は「三、芦塚忠右衛門 芦塚忠右衛門は小西行長の家老で慶長五年の關ヶ原の戰後には…(中略)…大坂冬夏の陣には大阪に馳參じ鴨野で討死を遂げて居る今の芦塚は其子であるとも或は子ではなく親自身であると云ふ兩説がある」〔『天草・島原 切支丹一揆史談』, 1935年、〕と述べて、小西行長の家老の蘆塚忠右衛門と一揆勢指導者の蘆塚忠右衛門には、同一人物説と、同名の親子説の二つがあることを示しているが、年齢を考慮すれば同一人物の可能性は低い〔。 また『大日本人名辞書』『日本歴史辞典』『天草軍記』などでは、蘆塚某の名、つまり忠右衛門の父の名を「忠兵衛」または「忠兵衛尉」として、別名説をとっている。 他方で、寛永14年(1637年)の島原の乱の史料には、一揆軍指導者のひとりとして参加した方の名前を「忠兵衛」とするものもある。『寛永平塞録』には評定人として「芦塚忠右衛門貞家」、武者奉行として「芦塚忠兵衛貞春」が、『嶋原軍秘録』には浪人衆のひとりとして「芦塚忠右衛門」、軍奉行として「芦塚忠兵衛」が、そして『忠利公 御年譜之内有馬記』には原城中の名が判明した浪人として「芦塚忠右衛門」と「芦塚忠兵衛」が並んで記載されるなど、親子または親子とは別の2人、島原の乱に忠右衛門と忠兵衛が同時に参加していたという説もある。 これらの事情から史料による人名の混乱が多く見られ、複数説または複数の解釈が可能で、どれが正しいのか判別は難しい。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蘆塚忠右衛門 (父)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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